株式会社東屋

坂見さんが、東京へやってきたのは、他ならぬ、旋盤機械との出会いがきっかけだった。
「18 まで学校に行ってから、家の仕事をしながら、夜間の学校に行った。
市がやっている、職人だけが入れるところ。
それで、海外研修に行ったんだよね。ヨーロッパの工芸の現場は、ほとんど回った」
イタリアではテキスタイルを。スイスでは時計を。イギリスでは彫金を。ドイツでは刃物を。
各国のマイスター制度とものづくりの現場を、20 歳で、目の当たりにした。
そんなとき、研修先のローマ郊外で、英式ベッドに出合った。
「いまうちにあるやつより、もっと簡素なやつだったけどね。
作ってたのは、食器だった。ティーポットとか、トレイとか。
あ、これ簡単だね、便利だねって。それで、ちょっと覚えたいと思ったんですよ」


日本に戻って、まず、機械を探した。
京都には、なかった。使える人も、ほぼいなかった。
それで、親戚の弟子筋を頼って、職人のいた東京の工場に入った。
「そこで、5年くらい習ったのかな。5年で帰るって、実家にも言っていた。
そうしたら、習っていた先の人が、亡くなられたんですよ。世話になった人が。
急だったから、仕事が山のように残っていて。
取引先から『これ、どうする』って言われて、いや終わらせますよって言った。
で、そのまま、現在に至る。以上」

岩手で見つけ、車で運んできたという英式ベッド。
戦前から使われていたもので、70~80年ものということになる。モーターは坂見さんが取り付けた。

東京と京都では、やり方が決定的に異なると、坂見さんは言う。
「材料を買うじゃないですか。そうすると、京都では、
製品を作って桐箱に納めるまで、全部を、ひとりでやるんです。
だから、何でも覚えました。鉄も。木も。
漆もやった。漆は、鉄と相性がいいからね。
京都では、皆、誰もが何でも触ります。
だけど東京は、わりと分業制になっている。
削るのは削る人がやったり、磨くのは磨く人がちゃんといたり。
やっぱり、仕事の量が多いからじゃないのかなぁ。
京都に比べれば、ぜんぜん便利ですよ。ひとりでやってたら、きりがないでしょ」


分業先は「だいたい、この辺の人」。
削ってほしいもの、磨いてほしいものがあれば、自転車にまたがって、ひょいと頼みに行ける。
「荒川区は便利。まあ、職人の数は、だいぶ少なくはなったけど。
だから、他のところへは、ちょっと行けないね」


一生、茶道具で終わるんだろうなぁ。
東京で独立したときの坂見さんは、そう思っていたという。
しかし、終わらなかった。
ハイエンドな仏具、茶道具は少なくなっても、仕事は次々、舞い込んだ。
新しく加わったもののひとつが、日用品や生活道具だった。


「茶道具、仏具のひとつひとつは高価なものだけど、
安定して決まったサイクルで入ってくる仕事じゃない。
もともと、われわれ職人の世界では、若いうちは安価な日用品を
たくさん作って、腕を磨いてきたんだよね」
さまざまなサイズの盆。同じく、トレー。茶托。
旋盤では作れない、丸くないものも持ち込まれた。
スプーン。フック。急須。
発注主の要望や、デザイナーの意向を聞きながら、
ああでもない、こうでもないと、議論しながら作る。
茶道具や仏具、伝統工芸の世界にはない、新しいものの作り方。

「小学校の頃から、ずっとここで、遊びでものを作ってた。大人になって、嫌な仕事をやるくらいなら、好きなことをやれたほうがいいと思った」
と克之さん。黙々と刻印作業を行う。

大変じゃないですか、と尋ねたら、「ぜんぜん」と、坂見さんは答えた。
「ものには、工夫していいものと、絶対にそういうことをしちゃいけないものとがあるんですよ。
たとえば、茶道具なら、表千家と裏千家の好みのものは、それぞれ決まっている。
重さと、かたちと、仕上げと。全部、何代も前からの、その通りじゃなきゃいけない。
そうしないと、『誰? こんな勝手なもの作ったのは』と言われちゃう。
でも、生活道具は、皆で考えながら作っていくのが楽しいじゃない?
抵抗は、ぜんぜんないです。こうしてほしいって言われたら、ああそうなのねって。
よくないと思うとき? そのときは、言いますよ。
『これは、そういうふうにはやらないんじゃないのかなぁ』とか。
説得すればいいだけのことだから」

 

茶道具、仏具の仕事と、日用品の仕事。
このふたつが両輪となっての、今。
掘り下げれば掘り下げるほど、仕事は面白いのだと言う。

 

「道具は、毎日使ってくれるじゃん。そんな高価なものでもないし。
もっと壊してくれりゃいいんだけど、壊れない。
どうかすると『直してくれ』って、持ってくる。
誰かにもらったとか、長く使ってるからとか言って、皆、持ってくるんだな」

坂見家の愛犬モルトは、燃える火にも、機械の轟音にも、まったく動じない。
鍛治場慣れしている。